ワッタカッタ!さんのBLOG

水平視点の韓国ウォッチと大好きな旅行の記録 ときどきぼやきも・・・
2017年07月 ≪  12345678910111213141516171819202122232425262728293031 ≫ 2017年09月
TOP2015年12月 日韓航空旅客拡大FAMツアー ≫ 【石窟庵 略奪事件の全貌】 京郷新聞2015.08.25の記事からの翻訳

【石窟庵 略奪事件の全貌】 京郷新聞2015.08.25の記事からの翻訳

石窟庵 略奪事件の全貌  京郷新聞2015.08.25
by 京郷新聞論説委員 李起煥[イ・ギファン]

1907年のある日、郵便配達員のキム某氏は配達のため慶州を離れ
吐含山(トハムサン)の東山嶺(トンサンリョン)を越えた付近で異常な光景を目撃した。

凡谷(ポムゴッ)付近で何か墓のようなものを発見し、近くに寄ってみると
入口に扉みたいなものがあり、天井は崩壊して抜け落ち、内部は土まみれ、
その土にはいくつもの石仏が埋まっている状態。

郵便配達を終え慶州へ戻ったキム某氏は日本人郵便局長の森馬助に
その興味深い事実を報告した。

「たくさんの石仏が散乱していました」

その話を聞いた森は梁弘默(ヤン・ホンムッ)慶州郡守(村長)や
日本人副村長の木村静雄、歴史愛好家の諸鹿央雄などと現場へ向かった。

Baidu IME_2015-12-20_14-34-51
1912年ころの石窟庵。
修復工事以後、照明器具なしでは石窟内部を完全に見ることができなくなった。
写真提供:成均館大學校博物館


751年(景德王10年)頃に完成した石窟庵が、朝鮮王朝時代の仏教弾圧を経て、
放置されたままの状態で発見された瞬間だった。

創建後、この土地の人々にとってはひとえに祈祷する空間だったものが、
ある瞬間に崩壊し、その後再び、新羅美学の真髄として蘇ったわけだ。

石窟庵とはどのような存在なのか?

日本の民芸運動家、柳宗悦は「石窟庵は東洋文化が最高潮だった時代、
霊気を蘇らせた新羅人が作り出した永遠なる傑作」と語り
彼は石窟庵の美しさを【哀傷の美/悲哀の美】と表現した。
中村亮平は【新羅芸術の真髄であり、朝鮮のみならず地球全ての美の殿堂】と激賞。
美術史学者の高裕燮(コ・ユソプ)は【インドは放棄すれども、シェイクスピアは
捨てられなかったイギリスのように、石窟庵は朝鮮半島にとっては
まるでシェイクスピアみたいなものだ】と語った。

そんな石窟庵は、1907年の再発見から再び受難の歴史が続いてしまうのだ。

石窟庵の再発見から2年経過した1909年の秋。
当時大韓帝国の官吏として慶州で勤務していた日本人の木村静雄はとても当惑する

命令を受けたのだ。石窟庵をきれいに解体して、京城(ソウル)へ輸送しろというもの。
具体的には『佛國寺の仏像や石窟仏を京城へ輸送せよ、
また、その際にかかる費用の見積書も送ってよこせ』という厳命だった。

朝鮮人の慶州郡守(村長)などは服従する意向だったが、
日本人副村長の木村静雄はこれには腹を立てた。

これは暴挙以外の何物でもない。本来、遺物とはその土地に定着してこそ、
本来の歴史的価値が示され、人々の関心も高まるのに、
他の場所に移す行為はあまりに無謀で、役人としては恥知らずにも程がある。
このような命令に従ってはいけないと考え、私は黙殺することに決めた….
黙殺が功を奏し、その後、この馬鹿げた計画が中止されたことにはとても満足だった
〈木村静雄自叙伝1924年から〉

当時日帝(日本統治時代の韓国的呼称)の計画は、
石窟庵の仏像や佛國寺の鉄仏を解体後、
吐含山(トハムサン)から15km、東海岸に位置する
경상북도(慶尙北道) 경주시(慶州市) 감포읍(甘浦邑)を経由し、
船舶を利用して仁川まで運搬するというもの。

こんな命令を下した人物は果たして誰だったのか?

1961年11月2日、東亜日報はこのトンデモ命令を下した時期は日韓併合直前の
1909年だったことも考慮し、張本人は初代朝鮮総督の寺内正毅だったと報じた。

寺内は「もうすぐ日韓併合も成し遂げるというのに、このような遺物を山の中に
放置しておくにはもったいないことだ。ソウルに移送しろ」と部下に指示したとのこと。

業者は慶州に集結したが、寺内のことを陰で『キチガイ』呼ばわりするなどして、
全員いなくなってしまった。こうして石窟庵の解体は行われず、
その代わり、現場での修復作業が行われることになった。

しかし【石窟庵解体後にソウルへ移送】という奇想天外な命令を最初に下した人間は
寺内ではなく別の人間によるものだった。

それはまさに日韓併合直前の1909年、2代目韓国統監となった曾禰荒助その人だ。
曾禰は初代韓国統監である伊藤博文からの寵愛を受け、韓国統監部の副統監として
勤務し、1909年6月に韓国統監へ昇進した。

彼は3ヶ月後の9月、初めて慶州を訪問した際、
【石窟庵解体後にソウルへ移送】命令を下したのだ。
恐らくこの計画は日韓併合直後まで推進されたが、
地域の反対などを理由に白紙撤回されたことは間違いない。

Baidu IME_2015-12-20_14-39-28
1909年、2代目韓国統監になった曾禰荒助はこの年、慶州を訪問した。
その期間中、石窟庵の五重小塔などが消え去った。


しかし、曾禰荒助に関する疑惑はそこで終わりではない。
彼の慶州訪問期間中、石窟庵の本尊佛の真後ろにある十一面觀音像前に
安置された五重小塔が忽然と消えたのだ。

1930年代、慶州博物館の館長を務めた諸鹿央雄は直接名前までは言及しなかったが、
有力な容疑者として曾禰荒助を示唆した。

現在、石窟庵の十一面觀音像前に残っている台石の上に小型だけど立派な
大理石の塔があったのだが……………. 佛舍利が奉納された小塔だった。
しかし、1909年、位の高い【某政治家】が視察後、どこかに行ってしまった。
今考えてみても、とても悲しく、残念なことだ。 〈新羅遺跡について1930年から〉

【某政治家】とは1909年秋当時、慶州を訪問した曾禰荒助を意味するのは明白だ。
日本の民芸運動家、柳宗悦も曾禰を有力な容疑者と見ているのではないか。

“韓国統監の曾禰荒助が五重小塔を持ち去ったのか、本当なのかはわからない” 
〈朝鮮とその芸術、1922年から〉

美術史学者の中村亮平は
“小さいけれど優れた五重小塔が消えてしまった現在、
姿をみることはできないが、ウワサでは、某氏の邸宅へ運搬されたそうだ”
〈朝鮮慶州の美術、1929年から〉

曾禰荒助を有力な容疑者とする理由がある。
曾禰は韓国統監として在職した1年余りの間、数多くの古書を収集し、
日本の王室に献上してきた人物だからだ。

“曾禰荒助が赴任して以来、朝鮮の古書を収集するのに熱中するのは
一般的に知られたことだが、その数なんと、2,000冊以上にも及び……”
〈皇城新聞、1910年5月8日から〉

伊藤博文が高麗磁器を【爆買い】したとすれば、曾禰荒助は古書などを
かっさらった略奪者だったということだ。
略奪の張本人、曾禰荒助は日韓併合直後、韓国統監を辞任し、
日本へ帰国後すぐに病死した。

彼が朝鮮の旧家や寺院などから手当たり次第に集めた書籍の中の一部は、
宮内庁の書庫に【曾禰荒助の献上本】という名前で所蔵されていたが、
1965年、日韓国交樹立後、返還文化財として韓国政府に返還され、
現在、国立中央図書館に保存されている。

しかし、曾禰荒助が確かに持ち去った【石窟庵の五重小塔】は
今現在も行方知らずだ。日本からの解放後、専門家たちは四方八方、
五重小塔を探し出そうと必死だが、相変わらず五里霧中状態だ。

後年、歴史学者の李弘稙[イ・ホンジク(1909∼1970)]は、石窟庵の石造物を搬出した
統監は佛國寺と石窟庵の宝物をありったけ日本へ運び出そうとしたのだと確信した。

曾禰が石窟庵の五重小塔を密かに搬出したのみならず、本当の狙いは
佛國寺と石窟庵の宝物全てだったというのだ。それは可能なことなのか?

日本人ならば可能だった。実際に1906年、天皇親政派の宮廷政治家、田中光顕は、
朝鮮を訪問し、黃海道豊德郡の扶蘇山ふもとにあった敬天寺の10層石塔を解体後、
搬出した前科があったから。

田中は『高宗皇帝が賜り物として石塔を贈ってくれた』といい、
石塔を解体し、数十台の荷車に乗せて開城駅まで運び、その後、
仁川で船積みして日本へ運び出したのだ

高さ13メートルに及ぶ巨大な敬天寺の10層石塔まで持ち出す日本人ではないか。
石窟庵そのものを密かに運び出そうとしたって何ら不思議なことではあるまい。
当時有力な日本人の間では朝鮮の文化財の略奪は一種の【流行り】だったのだから…

Baidu IME_2015-12-20_14-42-57
1912年に撮影された石窟庵。

石窟庵で消えたものは五重小塔だけではなかった。
石窟庵内部に安置された小さな仏像2点と、
佛國寺多寶塔に置かれた獅子3点も忽然と消えた。

石窟庵内部の小さな仏像とは上の方に配置された10個の龕室に
ひとつずつ置かれた仏像を意味する。その中の2点が消えたというワケ。

1910年から慶州郡の主任書記だった
木村静雄の回顧録を見れば、いらだちを覚える。

“私には最後の願いがある。泥棒らによって日本に持ち出された仏像2点と
獅子3点などの貴重品が返還され、完全なる形で石窟庵が保存されることだ。”
〈木村静雄自叙伝1924年から〉

木村は当時、佛國寺を管理していた和尚数名にお金を差し出し、半強制的に
石造物を略奪していった日本人たちを【泥棒】と断罪したのだ。
特に義兵戰爭(1905~1907年)のさなか、管理する者もいなかった石窟庵では、
石窟本尊のお尻部分が無慈悲にも破壊されたのは、

仏像のお腹部分に入れられた仏典を取り出すために行われた蛮行とも言える。
佛國寺の多寶塔の場合、上の部分に置かれた医師の獅子像4点の内、
比較的状態のいい3点や舍利塔なんかも略奪された。

この中で、石像の舍利塔は【わかもと製薬】の社長だった長尾欽彌の
所有とされたが、後に朝鮮総督府に返還された。(1934年)

この劇的に返還された石像舍利塔は現在、宝物第61号に指定されている。
木村の最後の願いはやはり心の琴線に触れるものだ。

泥棒によって持ち出された文化財が返還され完全なかたちで保存されること
90年前のある日本人の願いにも関わらず・・・
今の時代を生きる我々は果たしてどうしていくべきなのか?
ただただ恥ずかしいばかりだ。

忽然と消えた石窟庵五重小塔は今どこに?
文化財を探し出すのに時効なんて存在しない。
せめて探す努力くらいはしないといけないのではないだろうか?

(記事のオルネリョ!さんの翻訳はここまで)


석굴암38929481


盗掘は古今東西から多いもの、日本人の皆さまは、どう読まれましたか。
私は、微笑みの釈迦如来坐像だけが真実を知っているのではないかと。




〈 取材協力:日本空港ビルデング(株) ♡ 韓国空港公社






にほんブログ村 旅行ブログ 韓国旅行へ
にほんブログ村

ブログランキング参加しています。クリックよろしくです^^






関連記事

Comment

管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2015.12.22Tue 14:16 ≫ 編集
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2015.12.25Fri 07:14 ≫ 編集
Re: コメントいただいた方へ
コメントいただいた方へ
韓国のヒストリーは壮大なファンタジーです。
チャングムの誓いも、わずか1行残る記録で、壮大な物語ができました。
想像豊かな国民性でしょうか(^_^;)
2015.12.26Sat 10:52 ≫ 編集
Re: タイトルなし
コメントいただいた方へ
本当に基本、教育、考え方が違います。
違う人と、どうつきあうか、国にも政治も、個人も、
試されますね(^_^;)
2015.12.26Sat 11:20 ≫ 編集

Comment Form













非公開コメントにする
Trackback

Trackback URL